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2023年1月29日 (日)

クライストチャーチ便り(2)自分の感性にかさぶたを貼らずに済む幸せ

クライストチャーチに到着して5日目に、初めて自撮りの写真を日本にいる家族に送った。すると家族から「とても元気そう!」と言われたのは嬉しかったが、意外でmかった。なぜなら、子に写真を撮った時は、僕としてはごく普通の積もりだったからだ。 

でも、思い当たる節がある。クライストチャーチ入りしてから、意思疎通に困ったことは殆どなく、極めてストレスのない生活を送っているからだと思う。なぜなら、子供から年寄りまで、ほぼ全員が正統派の英語を流暢に話すのだ!まるで英会話教室の販促ビデオみたいに・・・。 

確かに、国際協力に10年近く携わってきた私の経歴のお蔭で、英語に触れる機会の多い生活を送ってはきたのは事実だが、それぞれ緊張して「ギアを入れ替え」何とか成果に結び付けて来たというのが正直なところだ。 

しかし、ここクライストチャーチでは、殆ど「ギアを入れ替える」必要を感じない。ショッピング・モールでの通行人の会話も日本語と同じ感覚で耳に入ってくるし、服を買う時に好みの伝え方も自然にできている。 おそらく、私の家族がきて話してみても、感じつストレスが格段に少ない血実感するだろう。

クライストチャーチ便り(1)ごみの性質ではなく最終処分に着目した分別

クライストチャーチ入りして最初の便りは、身近なごみの回収について感心したという、新鮮な経験をを紹介する。クライストチャーチ にある4つのショッピング・モールのうち、最もにぎわているモールの一つ、Northlands Mallっを訪れた時のことだ。

ここのモールの飲食ゾーンに置いてあるゴミ箱が目に留まった。左が「Recycling」、右が「Landfill」と書いてある。これに私は痛く感動した。特に右側のLandfillというのは「焼却後埋立」という意味で、最終処分方法から逆算して分別することを捨てる側に迫っている。逆に、焼却埋立以外のゴミは全てリサイクルするという静かな、しかし強い意志が感じ取れる。 

さて、買い物や食事を終えて、滞在先のモーテルに帰ってきた。気になって、ここの分別の指示を見てみると、Northlands Mallと同じように2種類しかない。ただ、海外からの旅行者を意識してか、Revyclingの方には「No Rubbish. No Organics.(クズゴミ・生ゴミ禁止)Landfillの方には「No Recycling. No Ashes(リサイクル可能なゴミ・タバコの吸い殻禁止)と注意書きがしてある。旅行者も「郷に入らば郷に従え」ということだろう。旅行者に媚びずに基本を貫く、静かだが強い意志を感じた。

2023年1月11日 (水)

クライストチャーチに思いを馳せて(2)日本とニュージーランド気質を表す形容詞の偶然の符合

英語で日本人の気質を端的に言い表す形容詞は、きちんとやり抜く美徳を意味する”meticulous”だろう。『現代英英辞典(Oxford Advanced Learners Dictionary : OALD )』では、”paying careful attention to every detail”と説明されている。

これに対して、ニュージーAdvanceランド人の気質を端的に表す英語の形容詞は、寛容で違いを尊重する”magnanimous”ではないか。同じく『現代英英辞典』では、”kind, generous and forgiving, especially towards an enemy or a rival ”と説明されている。

こじつけではあるが、この2つの形容詞が共に”m”というアルファベットから始まることに、私は単なる偶然の符合を越えたある種の啓示を感じる。

クライストチャーチに思いを馳せて(1)混迷を深める日本の閉塞状態を打開する“錐(きり)”を求めて

私は、明後日、2023年1月13日に日本を発ち、翌14日にニュージーランド南島の中心都市、クライストチャーチに入る。その後2月15日まで約1か月滞在する。滞在の主な目的は、いわゆる「ロジャーノミクス」の研究だ。

「ロジャーノミクス」とは、1984年に発足したデビッド・ロンギ首相率いるニュージーランド労働党政権で財務大臣を務めたロジャー・ダグラスが推進した、一連の経済改革政策を指す言葉だ。ロジャー・ダグラスは、ポンド経済圏から切り離され、オイルショックに翻弄された結果困窮した財政と経済を立て直すため、規制緩和と市場原理導入を大胆に進め、見事にニュージーランドをV字回復させることに成功した。

この成功例に学び、混迷を深める日本の閉塞状況打破するための“錐(きり)”のようなものを求め、この1か月間現地で人脈を広げ、V字回復を可能にした条件を探るつもりだ。

2022年4月30日 (土)

長期低落中の日本の再興は世界に比類なき日本の 地理的特性を認識することから始まる ~Geo Park Japan構想の提唱~

円安に歯止めがかからない。1ドル=130円を切っても日銀は政策決定会合で労的緩和措置の継続を決定した。黒田総裁は未だに「2%のインフレを実現する」という姿勢を崩していないが、この金融政策の誤りは着実に露呈しつつある。

アメリカの連邦準備志度理事会のパウエル議長は2022年中に2回利上げする旨を公言しているし、EUを始めとするヨーロッパ諸国も利上げの構えを見せている。その中で日本だけが梨利上げせず量的緩和を続けているのは、どうにも違和感が拭えない。

仮に金利を1%上げると、1,250兆円にも上る発行済国債の利払いが12.5兆円増えると試算されているが、が、これは新型コロナ対策で全国民に一律10万円を給付した際に掛った費用と同程度となるらしい。

ど加えて、円安はバブル前のように輸出型産業にプラスに働かない。バブル崩壊後の「失われた30年」の間に、輸出型産業に属する企業の多くが生産拠点を海外に移転してしまい、今や日本国内は「空洞化」が進んでいる。海外から部品を輸入しないと完成品を輸出できないと言う脆弱な構造になっている。こういう楮のまま円安が進むと、部品調達価格の上昇を招き、結果的に輸出型産業の首を絞めることになるのだ。この意味で、戦後日本が経済発展の基本戦略としてきた「加工貿易立国」モデルは既に実態を反映しない物となっており、この期に及んでも日銀が量的緩和政策を改めないのは、アベノミックスの失敗を糊塗する目的以外に考えにくい状況になっている。

それでは、機能しなくなった「加工貿易立国」モデルに取って替わる成長モデルは何か。その一つの答えは「価値創造型企業誘致立国」であろう。それも日本が世界に誇るその地理的特性を土壌とするイノベーションを促進し、その成果を世界に発信するのだ。

こういった価値創造型企業を世界中から呼び込むために、入管法などの日本人労働者保護を目的とする規制を撤廃し、法人税を始めとする税率を下げる。こうした施策を講じることで、革新的な発想を持ち進取の気性に溢れた外国人「を呼び込むのだ。

但し日本は、英語を公用語化したシンガポールや、もともとフランス語・ドイツ語・イタリア語を公用語に含むスイスとは違い、世界中から投資を呼び込むには言語面で決定的に劣る。ではどうすればその欠点を克服して世界中から投資を呼び込めるのか。答えは「自らの唯一無二の資産に気付く」ことだ。つまり、明確な四季に梅雨を加えた多彩な季節変化と数多くの温泉が物語る地球の造作を体感できるという地理的特性に注目しそれを積極的に打ち出すことを国家戦略とするのだ。

2つの体験パターンを考えて見よう。一つ目は「同一時間・異空間」体験だ。例えば、ゴールデンウイークに来日し、北海道のニセコでスキーを楽しんだ後に沖縄に移動し、石垣島でダイビングを楽しむといった経験だ。

同様に「異時間・同一空間」体験も考えられる。五本には四季に加えて梅雨がある。実は北韓道を除く日本各地には「五季」があるのだ。この全ての季節を「定点観測」する体験は日本でしかできない。例えば、年に5回、しかも春・梅雨・夏・秋・冬にそれぞれ1週間以上滞在した外国人には無料の来日航空券を進呈するなどの特典を与えるのだ。

皆さん、予測される大地震を徒に恐れるのではなく、そういう世界でも前な自然現象を引き起こす日本列島の地理的特性に目を向けましょう。日本周辺に4つの地殻プレートが集まるだけではなく、ユーラシア大陸から引きちぎられて形成された弧状の日本列島は、地殻の隆起により険しい山々から成る日本アルプスや紀伊山地、四国山地尾根群を持ちます。東京から近い「富士箱根伊豆国立公園」も、噴火を繰り返し美しいコニーデ型の姿を誇る富士山と海底から隆起して徐々にℋク城址、遂に本州に接岸した伊豆半島から成る奇跡とも言える景観を見せているのです。

改めて我が日本列島の地理的特性を再認識し、この愛すべき国土により育まれた農林水産業がもたらす多様な恵みを再評価し、「五季」による培われた常に創意工夫を怠らない国民的気質を再構築しようではありませんか。

 

2022年4月17日 (日)

世界に誇るべきは実は日本人ではなく日本の国土だった

Launching “Reinventing Japan Online Forum”

~ 「日本再興オンラインフォーラム」の開設について ~

 

令和4(2022)44

ソーシャル・デザイナー 林 博己

  1. 開設趣旨
  • 平成生まれの若者たちを過重な年金負担から解放し、日本を世界中から投資を呼び込める魅力的な国に生まれ変わらせるために必要な戦略を策定し、その実現方策を探るための知恵を出し合う緩やかな繋がれる場を提供する。
  1. 問題意識
  • 日本は明治維新以来、国家戦略として「富国強兵」・「殖産興業」政策を80年続け、第二次世界大戦以降は「加工貿易立国」制作を同じく80年続けて来た。
  • しかし、国際競争力や一人当たりのGDPなどの尺度で比べると、OECD加盟国間での相対的な重要性は下がり続けている。このままだと日本は人類の発展に貢献できない国家として世界から見放されてしまう可能性が高い。
  • この憂慮すべき事態を避けるには、着実に進む少子高齢化を前提とし、大量生産される均質な人材資源を逆手に取った逆転の発想に立って、新しい国か形を再構築する必要がある。
  1. 基本視点
  • 繁栄の果実を日本人が享受すべきと言う発想から脱却し、繁栄の結果日本国の財政が潤うことを新たな国家目標に据える。
  • 世界で戦える日本人を養成して来なかった事実を率直に認め、日本人には既に確立されたシステムを最大限に効率良くオペレートする役割を期待する
  • 日本再構築のグランドデザンを担う人材は、日本国内からではなく広く海外に求める。日本を世界で最も投資に魅力的な国に生まれ変わらせる。
  • これにより、既にスイスやシンガポールが実践しているように、日本をイノベーションを起こせる企業や個人が存分に活躍し、経済的な対価も享受できる開かれた国に脱皮させる。
  1. 参加要件
  • 上記の問題意識と基本視点を共有する個人であれば、人種・性別・年齢に拘らず、誰でも無料で参加できる。
  • 加えて、海外に1年以上赴任、もしくは留学した経験があれば、更に望ましい。
  1. 活動内容
  • 自宅や職場など、どこに居ても参加できるオンライン形式で意見交換を行う。
  • 簡単に解決が見つからない混沌状態に耐え続けられる真摯な姿勢を持ち、批判はするが非難はしない明晰な頭脳を生かし、「知的格闘」を行う。
  • オンライン形式での意見交換は、原則として月1回の頻度で週末の夜に1時間程度開催する。

2021年4月17日 (土)

素敵なモデルの魅力の源泉は何処にあるのか

まず、二本足直立歩行がもたらす不断の脅威について考えて見たい。恐らく、美しいモデルとは、「瑞々しい生命力に溢れている人」だと定義しても良いと思う。これは私が定立したテーゼに過ぎないが、もう少し敷衍してみたい。

人間は、二本足直立歩行を手に入れたことで頭脳を発達させることができた。しかし、その代償として筋肉や内臓の下垂の危険を引き受けることになった。従って人間は、日頃は意識しないが実は万有引力を恨んでいる。

だから、昔から天に向かって伸びる者に憧れた。ゴシック建築の教会尖塔が良い例だ。話は建築だけでなく人間にも当てはまる。真っ直ぐ立っている人は美しい。なぜならその姿勢が万有引力に勝っていることを示すからだ。

人間の骨格は皆同じだ。しかし、その骨格を直立させるのは筋肉の役割だ。「十分な筋肉を付ける」、これが美しい直立姿勢を取るためには、どうしても必要になる。

さて、これまで二本足直立歩行をする以上、人間が逃れられない不断の脅威、万有引力の恐ろしさとそれへの対抗策を説明して来た。ただ、これは負の(陰の)側面に注意を喚起したに過ぎない。物事には通常反対の側面があるので、万有引力の正の(陽の)側面についても見てみよう。

二本足で歩くようになった人間は、四本足で立つ動物と比べて、身体の殆どの部分が重心と至近距離に位置するようになった。また、「身体を支える役目から解放された両手は、常に自由に使えることになった。この二つの要素が、人間に躍動的な美しさの表現を可能にした。つまり、身体の軸を固定し両手を存分に生かした回転運動は、人間の専売特許「なのだ。

こう考えると、指先まで神経を行き渡らせて両手を表情豊かに動かし、身体を上下動を交え、時に早く時に遅く動かすことで、ほぼ無限のポーズが可能になる。ここで重要なポイントは、常に纏わり付く万有引力から逃れて高く飛翔する動きと、万有引力に任せて短く素早く回る動きをバランス良くイナミックに融合させることだ。

モデルを目指す皆さん、常に万有引力に対する愛憎の意識を持ちつつレッスンに励むと、豊かな表現力を身に付けることができるでしょう。精進を期待します。

 

2021年3月 7日 (日)

切れ目なく繋がる憧れの体系が表現者を破壊的創造の土壌となる

私はクラシック音楽が好きだ。高校1年の秋に、ヘンデルの『メサイア』に衝撃的な出会いを果たしてから、宗教曲は常に私の好きなジャジャンルの中心に居続けている。最近のお気に入りは、ハイドンの『天地創造』だ。旧約聖書「創世記」とミルトン「失楽園」を巧みに組み合わせた「壮大な曲として知られるこのオラトリオのCDは色々出回っているが、私は1969年に収録を終えた、古き良きカラヤン=ベルリン・フィルを買った。クラシクにのめり込んでいた1970年代を鮮やかに彩った名士達が、素晴らしい歌声を聞かせてくれている。

グンドウラ・ヤノヴィッツ、クリスタ・ルートヴィッヒ、フリッツ・ヴンターリヒ、ヴァルター・ベリーなど、当時を代表するカラアヤンの秘蔵っ子達が歌い上げる世界は、それなりの完成の域に達していて、現在聴いても静かで穏やかな感動に浸ることができる。どうしても、「昔は良かったなあ・・・。」と年配者特有の感想を漏らしてしまう。

ところで、このCDでテノールを担当したヴンダーリヒを襲った悲劇をご存知だろうか。彼は1966年、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場デビューを数日後に控え、その前祝いで友人が開いたパーティーで舞い上がり過ぎ、階段を踏み外して転落し、頭蓋骨を骨折して命を落としてしまったのだ。36歳の誕生日を目前にした急逝だった。

ヴンターリヒを舞い上がらせたのは、間違いなくメトロポリタン歌劇場が誇る高い評価と名声だろう。ドイツ人の彼にとって、メトロポリタン歌劇場は憧れの集大成だったに違いない。この例に留まらず、最近、「憧れの体系」という事に頻繁に思いを巡らすようになった。

話しは変わるが、私が住む街の近くに風変わりな映画館がある。岩波ホールなどで上映される名画が観られる施設なのだが、数年前に初めて足を踏み入れて以来、足しげく通っている。最近、2021年の1月から2月にかけてこの映画館で「バレエ映画の世界」という企画展があり、数々のバレエに関する名画を見る幸運に恵まれた。

その中の1本、『ホワイト・クロウ』で描かれる、伝説的なソ連のダンサー、ルドルフ・ヌレエフは、1961年にパリ公演の機会を利用してフランスに亡命しました。彼にとっては、レニングラードのキーロフ劇場を経て、パリオペラ座の舞台に立つという序列が、毎日の努力の駆動力になっていた。

また、別の作品『バレエ・ボーイズ』は、ノルウエー最高の名門、オスロバレエ芸術大学に2人のバレエ学校同級生と一緒に合格した青年を中心に描いている。彼は、ロンドンのロイヤルバレエ団からも誘い受け、挑戦と安定との間で激しく揺れ動く。結局、彼はより高いレベルで自分を試す道を選びロンドンに渡る決心をした。

こういった「憧れの体系」は、ある時期に一世を風靡する画期的な功績を上げた芸術家たちが、不断の努力でその築き上げた名声を維持し続け、続く世代に更なる飛躍の舞台を用意するという試みの上に、長い月日を経て確立されるものではないかと考える。

昨今、様々な価値が相対化し、憧れが持つ求心力が急速に「低下しています。それに伴い、本来なら屹立する価値体系への反逆芯を原動力に生まれる破壊的創造行為を目にすることが稀になって来ているようです。ある時期に厳然と存在していた「憧れの体系」をご存知の皆さん、挑戦すべき壁の大切さを継受していくのは、あなた方の最大の使命ではないでしょうか。

高校時代に独善と諦念を決め込むのは勿体ない。是非とも畏敬と憧憬の念を育む機会として貰いたい。

最近、電車や喫茶店で耳にする高校生の会話が気に掛かって仕方がない。男子生徒の殆どはゲームソフトの話に興じる。多くの女子生徒は自分の失敗を嘲笑する。笑いは引きつったような卑屈で不健康なものが多い。

些細なことに「エーッ!」と驚き、「ヤバい」という形容詞を肯定・否定いずれの評価でも濫発する。「綺麗な」、「美しい」、「格好良い」、「素敵な」等々の形容詞は、すべて「可愛い!」の1語に収斂してしまう“ボキャ貧”(「ボキャブラリが貧困」の略)」ぶりである。

時分と違う事柄に出会った時は、多くの場合、人は性急に結論を出したがる。「分からない・・・」という宙ぶらりん状態には、長期間は耐えられないのだ。自分が持っている引き出し(経験と知識)のどこかにしまい込まないと気が済まないらしい。

しかし、違うものは違うのである。心の平和を優先するあまり、自分の素朴な実感を圧殺するのは、知的自殺行為と言って良い。一部の「事実」を誇張し、あたかも「真実」であるかのように装う手法が、焦りと不安に苛まれる人々の消費行動を喚起するようになって久しい。

このような問題意識の操作を見破り、自立した大人として社会を渡っていくには、やはり「本物」を見分ける目を養い、偽物を排除した後に残った「本物」に対して敬い恐れるという“畏敬”の念を持つ必要があるのではないか。

さて、日本は近年、自然科学系のノーベル賞受賞者を次々に輩出しているが、彼らにほぼ共通いるのは、子供のような好奇心を持ち続けていることである。真実を知る喜び、それが更なる好奇心を掻き立てるようだ。確かに「心を空しくして」、「首を垂れて」学びの門を叩くのは勇気がいる。その気になれば教える側が如何様にも翻弄することができる、危うい存在だからだ。

ビジネス界で「Best Practice「やRole Model」が語られる湯になって久しいが、これらを“憧れ”という側面から扱う例は多くない。私が見るに、「Best Practice「やRole Model」が機能するには、それらの行為や人柄が客観的に優れているだけでは足りない。後に続く者たちの“憧憬”を喚起しない限り駆動力は生まれない。

都会の高校に通う皆さん、「触れることができるもの」、「目に見えるもの」だけで世界が判った気にならないでください。「触れることができないもの」、「目に見えないもの」にm7思いを馳せて、自分が本当に求める者を、腰を据えて探し続けましょう。

高校時代は、アルバイト勤務やボランティア活動を通して、実社会を垣間見ることができる一方、最終的な責任を取る当事者性は求められないという、大変良い時代です。熱い想いを持ち続けて駆け抜けようではありませんか。

2021年1月30日 (土)

新型コロナウイルスへの感染を判定するPCR検査の件数が増えない本当の理由を洞察する

新型コロナウイルス感染の判定には、一般に「ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)」の原理を応用したPCR検査が採用されている。国内での感染が確認された当初の2020年2月18日時点では、1日当たりわず」か 3,800件しかなかった検査能力も、2021年1月20日は約10万件(正確には103,313件)と過去最高を記録し、それなりに増強されて来ている。いる。しかし、これは十分な水準であろうか。

2020年末から続々と始まっている民間のPCR検査センターが常に予約で一杯に近い状況から判断すると、決して十分ではないと言わざるを得ない。 因みに、日本と似た島国のイギリスでは、2020年9月の1日35万件から2021年初頭までに30倍の最大1,000万件に拡大するという計画を打ち出している。彼我の大きな差を実感させられてしまう。

どうやら一筋縄では行かない理由が背後に潜んでいるらしいという事が判ってきた。政府の新型コロナウイルス対策本部の下に設けられている分科会のメンバーである小林小林慶一郎氏(元通産官僚、現東京財団研究主幹) が、テレビ朝日の朝のワイド番組「羽鳥慎一モーニングショー」で、分科会でのPCR検査をめぐる議論に付きまとう、特殊な雰囲気を伝えてくれた。

小林氏によると、厚生労働省の医系技官を頂点として、都道府県の衛生研究所の所員、市町村の保健所職員に連なる「感染症コミュニティ」とでも呼べる職能集団が共通の危惧を持っているらしい。それは、「感染症を制御するために、新型コロナウイルスの感染者を一律に隔離して行動を制限すると、裁判に訴えられると国が敗訴する・・・。」という思い込みだそうだ。

つまり、感染症対策の王道に従って、無症状の感染者まで範囲を広げてPCR検査を行うと、陽性者を隔離しなくてはならなくなる。そういう事態に陥らないために検査件数を絞る一方、遊休化している国有財産などを活用した隔離施設は敢えて設けない、という方針を取るという、主客転倒した論法なのだ。

背景として指摘されたのは、ハンセン病訴訟における国の実質的敗訴である。古くは「頼病」と呼ばれた「ハンセン病」の国家賠償法訴訟において、2001年5月11日の熊本地裁判決により、国は敗訴した。当初、法務省や厚生省の官僚は控訴する方針だったが、4回の厚生大臣経験を持つ小泉純一郎の政治決断により控訴は見送られ、熊本地裁判決が確定判決となった。そして、安倍前首相は2020年9月12日に元患者と家族に対して謝罪し、政府は補償に向けた法整備に入った。この間の動きに大きな影響を与えた熊本地裁の判決要旨は、次のとおりである。

I. 離政策の遂行状況について

  1. 1953年に施行された「らい予防法」では、勧奨による収容所への入所を定めつつ、勧奨に従わない場合は入所命令を出せるとし、この入所命令に従わない場合は直接入所を強制できると定めており、任意による入所とは認め難い。実際、収容者が最多となった1955年には、収容率91%に当たる11,057人を「収容していた。
  2. 抗ハンセン病薬が保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていなかったため、療養所以外に入院して治療が受けられる医療機関は京都大学だけだった。
  3. 収容の徹底・強化により、多くの国民は、ハンセン病が強烈な伝染病であるとの誤った認識に基づく過度の恐怖心を持つようになり、その結果、ハンセン病に対する社会的な差別・偏見が増強された。
  4. 軽快した入所者の退所についても極めて厳格な運用がなされ、1951年から1997年までの各年の退所者の割合は1%未満が殆どだった。厚生省は1956年に退所基準を示してはいたが、入所者には周知されていなかった。
  5. また、優生保護法のらい条項「により、1955年頃までは優生手術を受けることが夫婦舎への入居の条件とするという非人道的取扱をする療養所もあった。
  6. 1975年前後からは、療養所内の処遇改善が行われ、外出制限も緩やかに運用されるようにはなった。しかし、その頃には大部分の入所者が高齢となり、また療養所外の社会での偏見・差別は依然として残り、退所して社会復帰を希望する入所者が漸次減少して行った。

II. 隔離の必要性について

  • 1960年以降においては、ハンセン病は隔離政策を用いなければならない特別の疾患ではなくなっていた。病型の如何を問わず全ての入所者及びハンセン病患者について、隔離の必要性は失われた。 

III. 違法性と過失について

  1. 厚生省は、1960年時点で法の改廃に向けた諸手続きを進めることを含む隔離政策の抜本的な変換をする必要があった。そして、全ての入所者に対し、自由に退所できることを明らかにする相当な措置を取るべきであった。
  2. 抗ハンセン病薬が保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていなかったなどの制度的な欠陥により、入院してハンセン病の治療を受けられる医療機関は京都大学だけだったため、事実上療養所に入所せざるを得なかった。
  3. 厚生省は、入所者を自由に退所させても公衆衛生上問題とならないことを社会一般に認識可能な形で明らかにするなど、社会内の差別・偏見を除去するための相当な措置を取るべきであった。
  4. 厚生大臣は、隔離政策を継続させたこと、また、ハンセン病が恐ろしい伝染病であり患者は隔離されるべき危険な存在であると言うとの社会認識を放置したことにつき、法的責任を負う。

この苦難の歴史を踏まえて私見 を述べる。感染拡大を有効に制御できていない現在、求められている隘路突破の道筋 は、「羹に懲りて膾を吹く」愚行への決別だと思う。

確かに、ハンセン病国家賠償法訴訟における国の実質的な敗訴の意味は大きい。しかし、ハンセン病に対する隔離政策の誤りを、機械的に他の感染症に当てはめるのは、判例の解釈として誤っている。科学的知見を無視した隔離政策が破綻しただけである。

実際、新型コロナウイルスの感染者は、無症状であっても他人にうつす恐れがあることは疫学上証明されており、症状の有無を問わず隔離して移動の制限を加えても、家賃保証や人件費補助などの相応の措置がなされる限り、入居者から激しい反発は予想できない。

皆さん、この期に及んだら、「国は「行政の無謬性」に拘泥せず、感染症の拡大を防ぐ基本戦略である「徹底した検査⇒陽性者を隔離⇒陰性者で社会を回す」という政策へと、根本的に政策を転換すべきだと思いませんか。

«都市という社会装置を構造的に理解すれば人生の各段階で自己実現に最もふさわしい場所を主体的に選ぶことができる

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